士師記13:2−14/フィリピ4:4−9/マタイ11:2−19/詩編113:1−9
「神はマノアの声をお聞き入れになり、神の御使いが、再びその妻のところに現れた。彼女は畑に座っていて、夫マノアは一緒にいなかった。」(士師記13:9)
今日は士師記を読みました。エジプトを脱出し民を導いたモーセ、そのモーセの後を受けてカナン地方を制圧して入植を果たしたヨシュア。そのあとイスラエルが王政に至るまでの間、イスラエルに何か大きな問題が起こるときに、特別な召命を受けて民を導いたのが士師でした。「士師」とは「裁き人たち」という意味です。「裁き」とは言いますが、例えば裁判官などのような職制はもっとずっと後になって出来上がりますし、単に法律的な事柄を裁いた人というわけではありません。むしろイスラエルに起こる様々な問題、その多くが他の民族との関係や、他の民族の神との関係ですが、そういった問題が起きるときに立てられる人でした。
これは面白いところですね。モーセが率いて、ヨシュアが戦って勝ち取って入植を果たした土地は、神が約束の土地としてイスラエルに与えてくださった場所です。しかし、その場所にはもちろん先住民たちがいて、だからこそヨシュアは戦わなければならなかったわけですが、しかし士師の時代にもイスラエルによってすべてが完全に占領されたわけではなかったということが士師記冒頭に出て来ます。例えば士師記1章21節「エルサレムに住むエブス人については、ベニヤミンの人々が追い出さなかったので、エブス人はベニヤミンの人々と共に今日までエルサレムに住み続けている。」。こういう事例がたくさん出てくるのです。そして、他の民族が共にいることによってイスラエルには宗教的な問題が発生するのです。
今日お読みいただいたのは12人数えられる士師の中でおそらくいちばん有名なサムソンが生まれるときの逸話です。サムソンの父になる人はマノア、「平安」とか「休息」という意味の名前を持っていますが、母は名前が記されません。いやむしろ、「不妊の女」という差別語によって差別されていたのです。
その彼女のもとにヤハウェの使いが現れて、「あなたは不妊の女で、子を産んだことがない。だが、身ごもって男の子を産むであろう。」(3)と告げます。彼女は神の人が現れたこと、そして彼が告げた事柄がすべて恐ろしかったので、夫マノアに相談します。マノアは神に、もう一度使いを来させてくださいと祈ります。神はその祈りを聞き入れてもう一度使いをよこしますが、ここもまた面白いことに、再び妻のところに現れるわけです。「神はマノアの声をお聞き入れになり、神の御使いが、再びその妻のところに現れた。彼女は畑に座っていて、夫マノアは一緒にいなかった。」(9)。そして、今日は読みませんでしたが16節にはこうあります。「マノアは、その人が主の御使いであることを知らなかった。」。
「神の御使いが、再びその妻のところに現れた」(9)ので、彼女は急いで夫に伝えに走り「「この間わたしのところにおいでになった方が、またお見えになっています」と言った。」(10)にもかかわらず、マノアは「主の御使いであることを知らなかった。」(16)というのは、ちょっと考えるとおかしいです。マノアは妻の言葉も聞かないし、主の使いも、ひいては神も信じない人だったのではないか。そんな気がします。
その後のサムソンの物語はよく知られていて、サン=サーンスが「サムソンとデリラ」というオペラをつくり、セシル・B・デミル監督が映画を作りました。聖書本文を読んでもサムソンはかなり破天荒な人だったことが窺えます。ただ、彼が起こされた原因は13章の1節にあるように「イスラエルの人々は、またも主の目に悪とされることを行ったので、主は彼らを四十年間、ペリシテ人の手に渡された。」ということに尽きる。最初に申し上げましたように、イスラエルに何か大きな問題が起こるときに特別な召命を受けて民を導いたのが士師です。だから士師が起こされるということは、その時代の「今」が大変な状況であるということを証ししていることなのです。
その意味ではバプテスマのヨハネもそうやって神によって起こされた一人の人だったのかも知れません。マタイに依ればヘロデ王がおさなごを皆殺しにする命令を出したためにエジプトに避難していたマリアとヨセフが、ヘロデの死を知ってイエスを連れてガリラヤのナザレに戻った「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。」(マタイ3:1-2)のでした。決して政情が安定した訳ではなかったでしょう。
それどころか、イエスの生涯もまた「今」が大変な状況であるということを証ししているような歩みでした。結果的に彼は十字架で処刑される。パウロもまた大変な状況を生涯背負った人でした。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」(フィリピ4:4)と彼が語る「今」は、みんなが喜びに沸き立つような状況では決してありませんでした。彼自身は投獄されていて、その中から教会に宛てて励ましの手紙を書いているのです。しかも、フィリピの教会にもユダヤの教会から異なる教えを携えた伝道者たちが送り込まれている状況もありました。
これらすべての人がわたしたちの先駆者です。先駆者とは文字通りで考えれば他に先立ってことの重要さに気づき実行する人のことです。時代を見る目があって、だからこそ今しなければならないことを他に先がけてでもやる人には、当然ながら厳しい風が当たります。でも彼らが道を開いてくれたからこそ、わたしたちは今ここに立つことが出来ているのです。
となれば、「今」この時代を生きるわたしたちもまた、様々な疑念や嘆きを次の世代に残さないような、「今」の働きが求められている。わたしもまた「今」を「先駆者」として生きるように招かれている、ということなのかも知れません。
祈ります。
すべての者を愛し、導いてくださる神さま。様々な時代に、多くの先駆者が立てられ、時代の苦悩をその身に引き受けて歩み通しました。その先駆者の働きによって時代が開かれ、わたしたちの「今」へと続いています。わたしたちも「今」というこの時代にあって、なすべきつとめが委ねられています。力弱く、事をなす勇気も自信もありませんが、あなたがわたしを選んで呼び起こしてくださったのだから、神さまあなたが必要な力をその都度与えてくださることを信じます。その力によって、委ねられた務めを果たすことができますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。